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今回はるろうに剣心の主人公、緋村抜刀斎のモデルになったと言われている幕末の4大人斬りの1人とされている河上彦斎(げんさい)について紹介します!
そもそも緋村抜刀斎にモデルがいたのですね!ずっとオリジナルのキャラクターだと思っていたので意外でした。
河上彦斎の生い立ち
江戸時代末期から明治時代にかけての熊本藩士です。熊本城下の新馬借町(現在の熊本県中央区)に下級藩士の次男として生まれました。同藩の同じく下級藩士の河上源兵衛の養子となり、名を彦斎と改めたようです。
16歳から城で坊主として雑用をこなしながら生花や茶道もやっていたようですね。
その後、朝廷の警護兵として上京するも職を解かれ、長州と行動を共にすることになります。一度、京を離れますが、池田屋事件をきっかけに再び京へ戻ります。
そん後佐久間象山の暗殺、脱藩による投獄、兵学校の設立と様々な動きがあった河上彦斎ですが、投獄中に幕府が崩壊し、明治政府により明治4年12月に38歳という若さで斬首刑に処されます。
河上彦斎は大きく揺れ動く時代にありながらも自身の尊王攘夷の思想を曲げることはなかったと言われています。
佐久間象山の暗殺
彦斎は小柄な体格でありながらもその残忍性が恐れられるほどの存在で、仲間と酒を飲んでいる最中に中座し、役人の首を切って帰ってきたという逸話も残されています。
その彦斎が一躍人斬りとして有名になったのが、佐久間象山の暗殺です。
彦斎は京都で馬に跨っていた佐久間象山を見て「西洋かぶれ」という理由で暗殺します。(これには諸説あるようで初めから佐久間象山の命を狙っていたという説もあるようです。)
緋村抜刀斎は逆刃刀、では河上彦斎の愛刀は?
緋村抜刀斎は人斬りをしない誓いのため、逆刃刀を使用していましたが、実は河上彦斎も佐久間象山の暗殺後は人斬りをしなくなったと言われています。(実は佐久間象山が自身と同じ思想を持っていたのを知り、人斬りをやめたという説もあるようです。
実際に逆刃刀は存在していたとされていますが、彦斎が使用していたかは定かではありません。記録として残っているのは彦斎の愛刀は『肥後国同田貫宗廣』(ひごこくどうだぬきむねひろ)ということです。
終わりに
いかがでしたでしょうか?
緋村抜刀斎と河上彦斎のストーリーは違いますが、腕のたつ志士であったことや自身の思想を曲げなかったことなどいくつか共通する点はありましたね。実は河上彦斎には一度睨まれたら逃がれられないということから「蝮蛇の彦斎」という呼び名があったようです。そこも何か緋村抜刀斎と似ている気がしますね。
ぜひ、興味を持った方がいらっしゃったらもっと調べてみてくださいね!