戦国時代の子育てはどうしていたのか?偉人を育てた2人の母の愛情いっぱいの子育てを紹介します!

こんにちは!Barney’s gardenへようこそ!

本日は世の子育てに悩む人必見の情報をお届けしたいと思います。5月18日NHKで放送された「知恵泉」でも紹介された戦国時代の育児はどういったものなのかを中心に書きたいと思います。

確かに戦国時代ってどのような育児をしていたのか気になりますよね。今回は戦国武将を勝者に導いた徳川家康の母「於大(おだい)の方」、伊達政宗の母「義姫」の2人の育児について紹介したいと思います。

徳川家康の母「於大の方」の愛

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政略結婚で子が産めれた於大の方。その息子が後の家康となります。於大の方の実家とも言える刈谷城が織田勢に付いたため竹千代を残して離縁を余儀なくされました。3年後、織田方に竹千代が人質に取られます。竹千代の身を案じた於大は織田信秀を訪ね、命乞いをしたり、衣類や菓子を届けていたとも言われます。竹千代は離れていても母、お題の方が見守ってくれていると安心感が得られたことでしょう。

竹千代は人質交換で今川側に帰ってきたが、駿府今川の側に取られ、これまた人質に取られてしまいました。於大の方は自身の母、お富に手紙を書きました。そしてお富が竹千代の面倒を見るようになったのです。そしてお富を通して商人などを使って荷物を届けるなど、於大の方は竹千代と関わりを持ち続けました。竹千代は離れていても母の愛情を受けていた。

現代に置き換えるなら、両親共働きだったり、訳あって自分の子と過ごす時間がない親が、離れていても愛情を伝えるということでしょうか。何よりも於大の方のように見捨てたとは思わせないことが大切なのだと思います。会ったときに抱きしめる、愛のある言葉をかける。こういうことでも子は親の愛をしっかり感じることができるのでしょう。

希代の悪女といわれる「義姫」の愛

天正18年4月5日伊達政宗は自らの母、義姫に毒殺されかけたというのが通説ですが、専門家は偽装だったのではないかと見ています。その理由は毒殺未遂事件の後、政宗と義姫は手紙のやり取りをしていたという事実があったからなのです。しかも内容は互いの情愛を感じらるもので、例えば政宗から母、義姫に宛てた手紙では「お小遣いの3両をいただきました。ありがとうございます。千両、万両より嬉しい」と書かれていたり、政宗も贈り物を送っていたということがあります。そして事件後も吉姫は政宗の側にいたとこも分かっています。さらに政宗の弟、小次郎は毒殺未遂のあと、謀反を起こす危険性があるとして兄、政宗によって殺されたというのが通説です。しかし、実は小次郎は寺に預けられていたという事実も分かったです。

ではなぜ、そのような偽装を行ったのかということですが、当時、伊達家は危機的状況にあり、秀吉につくか北条に付くかで迷っていた時でした。政宗は秀吉に付くことが最善と考えていたようですが、もし、秀吉に付くために政宗が城を空ければ北条に付くことを望む家臣が小次郎が担いで謀反を起こすかもしれなかったのです。そこで画策されたのが毒殺事件です。毒殺に見せかけ秀吉を欺き、小次郎の謀反の芽を摘んだのです。

そこには母、義姫の子どものためなら大胆にやって悪女になるという覚悟があったのだと思います。そこには親子の信頼関係があり、自分の子のことをよく知ってたから、そして、何よりも守ってあげたかったら自ら悪者にして子を守っただと思います。現代で言えば親は「自分の子どもにはこういうことをやらせたい」「こうなってほしい」と望む部分があると思いますが、必ずしもそれが自分の子に合っているわけではないと思います。だからこそ「この子に合うのはなんだろう」「好きなことはなんだろう」と観察することが必要なのだと思います。番組の中で尾木ママが天才キッズの親は良く観察していたと言っていました。また、体操の内村航平選手の母はもともと、別のスポーツ選手になって欲しかったようですが、内村選手が小さい頃からトランポリンばかりやっていたので、無理強いせず、本人の好きなことをやらせてあげたらしいのです。

おわりに

いかがでしたでしょうか。2人の子に対する愛情は現代の私たちにも通ずるものがあるのではないでしょうか。今回は2人の母について紹介しましたが、今では男性も積極的に子育てをする時代です。お父さんにもぜひ、参考にしていただけたら嬉しいです。

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